”伝統と革新”が二人をつないだ。

 2014年もあわただしい年の瀬に向かおうとする初冬の昼さがり、クラフツマン25周年モデル開発責任者の橋本直樹は都営地下鉄・西巣鴨駅から明治通りの一角に降りたった。

 首都高速の高架道が空を塞がんばかりに覆いかぶさり、新旧のビルが競うように空に向かって林立している。この建物の一室に橋本が足を運ぶのは今回が初めてではない。年初から始まったクラフツマン25周年モデルの企画の中で、橋本がこだわった手仕事によるケースバックへの彫金(エングレービング)。通常の刻印は機械化されたレーザー機器によって行うが、ケンテックスの25周年を飾るこの特別なウォッチには、どうしても洋彫り職人の手仕事による刻印を施したいと考えていた。

「以前、トゥールビヨンのサイドプレートの彫金をやったことがあるんですが、そのときに和彫りと洋彫りのそれぞれの職人さんにサンプルを作ってもらったんです」

 和彫りは鏨を金槌でたたきながら手前に引くように彫っていくのに対し、洋彫りは金槌を使わずに鏨を直に持って、手前から奥に向かって彫る。

「和彫りのラインは金槌を使うことで打ち出される力強さという魅力があるんですが、曲線のラインが少し堅く、今回のクラフツマンのように、ふくよかな滑らかさを表現するなら洋彫りを試してみたいと思っていました」

 25周年モデルのケースバックにあしらわれた雉は、橋本直樹が発案した。頭の中にある繊細な曲線を体現できる彫金師を探していたところ、櫛部さんに行きあたる。橋本は言う。

「櫛部さんは、まだ若いながらもフィレンツェでの職場経験もあり、伝統的なスタイルに革新を加えるマインドを持っておられる方だと感じました。クラフツマンもまた、機械式時計という伝統性にトリチウムやIPHといった現代技術を融合させるコンセプトが盛り込まれています。”伝統と革新”を表現するにあたって、あえて若い櫛部さんにお願いしたいと思ったんです」

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洋彫師の工具「チャポラ」。いわゆるタガネだが手にすっぽりおさまる大きさ。丸い柄は刃とは別々に購入し、彫り師の好みに合わせて組み合わせたり削ったりして微調整する。

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彫金師の櫛部さん。橋本直樹と共通するのは、伝統性と革新性の融合という永遠のテーマ。

 

「すべては石のために」

 作業場で櫛部さんが取り組んでいたのは、なんと七宝焼(しっぽうやき)への彫金。七宝焼といえば日本では奈良の古墳からも出土している伝統工芸である。

 ヒコ・みづのジュエリーカレッジと2年間のイタリア研修で彫金を学んだ櫛部さんは、大手ジュエリーブランドを手掛ける会社に就職し職人として3年間腕を磨くが、本場イタリアのフィレンツェ・スタイルという伝統的な彫金技法への思いが募り、単身フィレンツェに渡り2年半、現場で研鑽を積む。

 櫛部さんが取り組んだのは、イタリアの中でも特に装飾性の高いフィレンツェ・スタイル。見る者の目を釘付けにしないではおかない華麗さと気高いシックさが共存し、ルネサンス時代から文化人や芸術家、貴族の支持を受けてきた伝統的な彫金スタイルで、デザイナーと職人とが完全に分離している世界だという。

 王侯貴族の身を飾り磨き上げられてきた彫金は、宝石という主役をいかに引き立てるかという命題を負っている。「すべては石のために」というわけだ。実際、櫛部さんは仕事の多くを超高級宝石ブランドから請け負っており、このときは石を引き立てる職人に徹する。
 一方、自らの創作性・独創性をもとに切り拓いていく仕事もある。シンプルさが好まれる現代においては、長らく石の影に隠れていた彫金自体が主役になる可能性が広がってきた。万人受けするものではないとしても、そこに櫛部さんは自らのブランドをもったデザイナーへの夢を賭ける。クラフツマンの仕事はそのちょうど中間といったところだろうか。

「芸術性半分、商業性半分の世界です」という櫛部さんの言葉に橋本は大きくうなずいた。

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「チャポラ」というヨーロッパのタガネが主要な工具。刃をあてるまえに毎回、ていねいに研ぐ。専用デスクには手前側に研ぐための小さな台が備わる。

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櫛部さんの手による華麗な彫金。フィレンツェ・スタイルとは、その名のとおりイタリアの古都フィレンツェ発祥の伝統的彫金スタイルである。

クラフツマンへの彫金の実作業

 ここでクラフツマンのケースバックへの彫金を実演してもらった。「チャポラ」という極小のタガネを二段目の引き出しから取り出し、刃先を研ぐ。この引き出しは用途ごとに刃先のことなるチャポラが並んでいる。チャポラは柄の部分が球状になっており、たなごころにすっぽりと収めるようにして持つ。
 ケースバックを回転式の彫刻台に粘土で固定。彫金がはじまった。チャポラを持った右手はほとんど動かさず、彫刻台の回転部分を左手で少しずつまわしながら彫り進めていく。タガネの方は動かさず、台の方を動かして彫っている感じだ。水墨画のように、さらさらっとはいかない。こつこつと地道に彫りを進めていく。こうして橋本のデザインした雉が、ケースバックの上で命を吹き込まれるまでに5時間以上も費やされる。

「やはり雉の力強さと生命力が違う」と完成品を手にした橋本。「手彫りには、羽の一枚一枚の彫り幅が途中で変わったり、彫りの深さに強弱がついていたり、表情みたいなものがありますね」

 ベランダから差し込むやわらかな冬陽に包まれて、黙々と雉と対峙するその背中は孤高な仏師のようでもあった。 

(文・写真:市原千尋)

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彫金専用デスクはイタリアから取り寄せた宝だ。工具を持った方の手はほとんど動かさず、作品を粘土で固定した回転台の方をまわして彫り進めていく。

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キズ見で拡大してみても面白さがあると橋本。「わざわざレーザー刻印を拡大してみる人はいないと思いますが、拡大して見てみたいと思わせる魅力が手彫りにはあります」

引き出しの二段目はいつも少し引き出された状態になっており、微妙に刃先の異なるチャポラ(スイス製のタガネ)をすぐに取り出せるようにしている。

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